自分次第と自分のせい
- Ayako

- 2019年10月13日
- 読了時間: 2分
先日ショックなことがあった。
信頼していた人が思った人と違ったからだ。
悲しくなったあとふと、とは言っても自分が勝手に信頼をよせていただけだし…向こうは私に対して信頼してなんて言ってないし…
そんな風に思いなおしながら悲しくなったりムカつく気持ちは、自分のせいだと思うことにした。

たいがいのことは自分の心の持ちようだと思ってきた。ここ数年特に強く、人のせいにしたり何かのせいにするのは自分の中でも御法度になっていた。
けれどなぜだか今回ばかりはそれで終わらせようにも全然腑に落ちない。
なぜだろう。
思えばすべて自分で抱え込みすぎだし、真面目過ぎだし責任感が強すぎると言われたことがある。何かと友人からこのワードを言われるたびに、そんなことはないけどなあと思っていた。
けれど今思うのは腑に落ちないほどのことを自分の責任にして処理しようにも限界がある。もちろん全部自分が悪かったり、原因があるときはあると思う。
けれどそれぞれ自立した人間同士が対人関係を結んでいるわけだから、最低限のマナーや約束を守るのは当然。単純に人と人とが信頼関係を結ぶにはそういったさまざまなことを通して築いていくのだと思った。
そう考えると今回の件に関して、この人は信頼できる!と私が思ったのは時期尚早だったし、人との付き合い方は時間をかけたほうが自分に合っていると気が付いたのだった。

そして、先日そんなことを思いながらその話を友人にした。
私は星座や血液型、占星術、スピリチュアルが好きなのだが、遊び半分で考えているところがあり、あくまでも補助的なものとして捉えている。その友人もそんな感じではあるが、県民性もあるんじゃないかという話をされ、あまりにもぴったりと当てはまったその話に思わずうなってしまったのだった。
大阪の人は明るくて元気、話には必ずオチをつけたがる。。。
33年大阪で生きているけれど、最後にオチをつけるわけでもなくこの話には困惑するばかり。そうは言ってもそういう人達が多い中育ってきたので、実際その県民性を理解しているのも事実。
他府県のことは詳しく知らないし、決めつけたくはないけれど、たまにはそういった属性の可能性に思いをはせたりしようと思った。そして、今回の出来事は自分の対人関係のありかた、捉え方、築き方をあらためて考えさせられた。

自分のせいと捉えるのではなく、自分の考え方次第で物事の見方は変わっていくんだ。
そんなことを繰り返しながら、毎日人は生きているのだなと改めて思った。





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