写真とは?
- Ayako
- 2018年2月4日
- 読了時間: 4分
とてもありがたいことに、“写真ってどうやって撮ってるの?カメラってどうやって選んでる?
何を使ってる?”と、聞かれる機会が多くなった。
これはインスタグラムが流行っていて写真に関心を持つ人が増えたこと、そして私の周りに子供を持つ友達が増えたことが影響しているのだと思う。
そんな私がいつも答えられることは正直全然なくって、改めて写真に対してたくさん考えるようになった。

2年ほど前、『「いい写真」はどうすれば撮れるのか?』(中西祐介著)という本を読んだことがある。色々なことが書かれていたが、『テクニック以前に考えることがある』ということが一番のキーワードだったように思う。
それから自分なりにいろいろと考えてみたが、考えるほどにわからなくなった、というのが正直な気持ちだ。一眼レフを使ってもう6年。3年ほど前に機能を全然使いこなせてないと思った私は、カメラの解説を一から覚えなおすことにした。
そこから色の設定や天気のことなど改めて考えるようになり、自分なりに写真を撮る幅は広がったと思う。色の設定を濃くし、失敗したこともあれば、色を変えたまま人を撮ってしまい、人の肌がムラサキ色になったこともある。
そうした経験から得たものは、確かにカメラの設定を覚えれば撮れる写真の種類は増えるということ。制限がなくなっていき、撮りたい色も出せるようになるし、時間や天気に関係なく、映せるものが増えるということだった。
そんな中、あらためて感じたことは、やっぱり写真は自由だということ。
写真をうまく撮るよりも、撮りたいものを撮る。
要するに気持ちが先でないと楽しくなくなってしまうということだった。
うまい、下手、それはもしかしたらあるかもしれない。
人から見て、好き、嫌いもあるかもしれない。
それでもそれ以前に、自分がその撮るもの対してなぜそれを撮りたいと思ったのか?惹かれたその気持ちがとっても大切なんじゃないかと思った。そういう意味では色がおかしくても、ぶれていても、決してピントがあっていなくても、自分の撮りたいものを撮っているかがその後の印象に大きく変化がある気がした。
そうして過ごしていくと、日々自分が目に入るものはやっぱり美しいものが多く、写真を撮りたいと思う瞬間で溢れていると気づく。
夜中に目覚めた瞬間、カーテン越しに見える月が美しくて、それを撮ったこともある。
朝見返すと、全然うまく撮れていなくて、ボケていて、さすが夜中の寝ぼけ頭で撮った写真という感じだが、その時のレース越しに輝いていた月の印象は心の中にはっきり残っていて、自分にとってとても大切な写真になった。
先日カタールを旅した際、あらためて写真を撮ることも旅することも好きだと感じた。
ただただ、バスに乗り、いいなと思った景色をカメラに収める。
撮った写真は車のスピードに追い付かずにぶれている。
それでもこの月と砂漠を撮りたかったという気持ちは変わらない。風になびいていたからこそ、感じた気持ちだったことも変わらない。
そしてやっとこれを撮るには設定を変えないと自分が思い描く写真は撮れない、それなら設定を変えてみようと、再チャレンジできるのだと知った。




今まで夕陽を撮るには夕陽が見える絶景スポットに行ったほうがいいと思っていた。ところが先日行ったカタールのkatara村では日が落ちる時間の光が美しく、それに魅了された。光が印象的な場所。それだけで写真を撮りたくなった。夕陽は建物の裏に隠れ、それでも太陽の光はまだまだ強く私を魅了した。南国ではよく見かけるブーゲンビリア、通っている車、ベンチに座る人々を照らす強い光。
そんな美しいものを撮りたいと思ったこの気持ちを大切にしていきたい。そしてそれを写真で表現できたら、とそんな風に思った。


昨年、私の写真は青が印象的ですと言われた。
旅のときは晴れることが多い私は確かに青空が映っている写真をたくさん撮っている。そんな風に自分の写真を言ってもらうことで自分が好きなものを無意識にたくさん映していることにも気が付いた。


写真を撮るたびに、たくさんの気づきがある。そんな風に言われ、改めて青空の写真を見返すと、不思議なことに色が全然違うことに気が付いた。日本にも青色はたくさん存在する。水色、藍色、空色や露草色。聞いたこともない多種の青が存在しているが、どれも自然や生活の中から生まれたものばかり。
もし私の空の写真に名前を付けるなら、なんて名前になるだろう。

自分の思いが反映する写真を、思いが伝わる写真を、これからも撮りたいと思った。
それが今の私の「写真とは?」という答えかもしれない。
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